男と女の断章 Seven True Stories   第二話 フランスパン

N君と知り合ったのは20世紀の終わりかけのころだった。だからもう、だいぶ前のことだ。マイクロソフトが Millenium という OS をだし”ミレニアム”という聞きなれない言葉が一般に知られるようになったころである。

N君は、ブラジルの南の州で農業を営んでいた。ファゼンダとよばれる農場を購入し、彼はそこに ”大草原の小さな家” のような小屋を建て、三匹の猫、一匹の犬と一緒に一人で住んでいた。農場といってもブラジルの標準からすれば規模は小さく、20ヘクタール位の大きさだっただろうか。

私と彼が知り合ったのは、当時あたためていた仕事を手伝ってくれる人を探していて友人にN君を紹介してもらったのがきっかけだった。ゴイアニアからサンパウロで飛行機を乗り換えて、彼の住む町まで行った。N君は空港に出迎えに来ていて、彼の車ですぐ農場に向かった。

彼の住んでいる ”大草原の小さな家” は、驚くほど質素で、土間に木造りのシンプルなテーブルがあり、奥に業務用の火力の強いガスレンジ、あとは小さな寝室が二部屋という構造だった。ただドラム缶のお風呂がつくってあって、冷え込んだ夜にはとても気持ちがいいのだった。彼のこの家に、もし日本の雑誌や本が置いてなかったら西部開拓史時代にさまよいこんだのかー と錯覚するような雰囲気だった。でも、決して感じは悪くはなかった。

N君は元々軍人の家系に生まれ育ち、ブラジルに来る前は彼自身も軍に所属していた。そのせいか姿勢がとてもよくて、部屋も男一人で生活している割には清潔に保たれよく整理されていたように思う。

その日は彼の家に泊めてもらうことになった。意外においしかったN君手作りの夕食の後、ほの暗い裸電球の光の中で、背が高く痩身の彼が問わず語りに話してくれたいろいろなエピソードにはほのかな味わいがあって、私には珍しかったし面白くもあった。日本での生活、ブラジルに移民で来てからのこと、有機農業のこと、この町の市場のこと、最近読んだ本のこと、将来の計画ー

ただ主役であれ脇役であれ、ブラジルに住んでいる独身の男性が語るエピソードにしては登場しておかしくない ”あるもの” がどの話にも出てこないことに気がついた。

それは”女性”についてである。

当時、彼は30代後半にさしかかったばかりだったと思う。彼がブラジルに来てそろそろ10年が経とうとしていたから、よほどのカタブツでない限り、チョイ役でもいいから ”女性” が話の中に登場してもおかしくないはずだ。しかし、お酒がまわって上機嫌なはずの彼の口からはその影すらでないのだ。

夜も更けてきてそろそろ寝ようかという頃、私からそのテーマについて水を向けてみた。その時の彼は一瞬驚いたような顔をし、頬を少し染めたのが薄暗い光のなかでもよくわかった。

「イヤ、そういうことはあまり自分には経験がなくてー」

女性の話を振っただけでこのような含羞のある表情をする30代の男性とはー
私は軽い驚きとともに ーこれは明治の男と話しているのではないかー そんな錯覚さえ覚えそうになった。その夜はそれ以上話の接ぎ穂がなくて、二人ともすぐ寝てしまったと思う。

翌朝は早めに起きたつもりだったが、N君はとうに起きていたらしく、食事の用意をしてくれていた。彼の住んでいる町は、ブラジルでも南にあるから朝夕の冷え込みがかなり厳しく、霜が降りることも珍しくない。その日の朝もかなり冷え込んでいた。朝食は、彼の昔気質からご飯ではないかと想像していたが、パンとコーヒーと卵だった。

「へーえ、N君、洋食もすきなんだぁ、朝からご飯かと思ったよ」

というと

「えぇ、ご飯でもいいんですけど、パンも好きだし、それにパンがたくさん余っているものだから」

確かにキッチンのかごの中にフランスパンのようなものが何個もおかれている。決して無駄使いをしそうにもないN君がフランスパンとはねぇそれも買い置きをするとはねぇ。

快晴のその日は彼と街へ出かけた。これからの仕事に必要なものを買い込んだり、この町のショッピングセンターを案内してもらったりして過ごした。農場に帰る途中N君が「寄りたいところがあるがいいだろうか」と聞いてきた。しばらくして町の出口にある小さなパン屋の前に車を止めた。彼にくっついてそのパン屋に入っていくと、彼はそこでまたフランスパンを買うのだった。店には ”かなり” と言っていいほどきれいな若い日系人らしい女性がいた。彼女はN君と笑いながら二言三言、言葉を交わし、パンを手早く包んで彼に渡した。そのパンを抱えて車に戻り、地平線が見えるくらい広い夕暮れのなかを農場に向かった。

「またフランスパン買ったの?余ってたじゃない、そんなにおいしい?」

「いやいや、パンではなくてーー」

「えっ?」

「いやいやー そのー」

この方面の機微には鈍いと定評のある私もさすがに気がついた。彼とさっきフランスパンをN君に渡していたきれいな若い女性のイメージが重なった。

「何 N君、あのきれいな女の子が目当てだったの」

「ええ、まぁ」

この事実にすっかり興味を持った私は、例の彼のほの暗い家で二人で夕食をとりながらなだめたりすかしたりして、ついにその話、つまり彼と彼女について聞きだすことに成功した。

彼によると、一年くらい前に町から農場に帰るとき、たまたまこのパン屋さんによって彼女と出会ったのだという。出会ったといってもただパンを彼女から買うだけなのだが。

彼女は、彼女の家族全員で一緒に日本に出稼ぎに行き何年かみなで働いた。やがてブラジルに戻り、家族であの小さなパン屋さんを開けた。ほかにも姉妹がいて皆で店を手伝っているが彼女が一番若くていつも店に出ているー そしてN君はこの女性を見染め、このパン屋に寄ってはフランスパンを買うようになった。

「でっ?それで?」

「それでって、それだけですよ」

「デートに誘ったの?」

「いえ、まだーーーー」

「でももう一年もたってんだろ、彼女の名前はなんていうの?」

「聞いていません、きっかけがなくて」

「えっー」

N君のキッチンに置いてあるたくさんのフランスパンは、彼女に会いたいがために彼女の店に寄るからどうしてもたまってしまうらしいのだ。しかし、一年もたって名前も聞けないとは、純情というか無策というかー。

この話をきっかけに、彼ともっとざっくばらんに女性や結婚について話をするようになった。彼の結婚生活のイメージは、昔ブラジルのある農場でみた一瞬の光景が理想になっているという。それは田舎の小さな農場をたまたま通りかかったときに見た風景だった。ちょうどお昼頃、朝の農作業を終えたらしい二人の若い夫婦が木陰で並んで座ってお弁当を楽しそうに食べている。N君にはその二人が本当に幸せそうに見えたというー

どんなにお金を持っていて、いい車に乗っていい服を着て派手な生活をしていても、あのような幸せな二人にはとても及ばない。
そんな風に感じたというー

N君はパン屋の彼女と彼の小さな農場で、たとえ贅沢はできなくても二人で同じ夢を持ちながらかつて見た ”農場の二人” の風景のような生活ができたらー
と思っていたのに違いない。

私はN君の話を聞きながら、感心していた。なんとまっとうな願いだろう。なんと正直でストレートで美しい理想だろうー
もしかしたら本当の幸せとは彼の語るようなことなのかもしれないー

でも心のどこかで、そんな生活をすることは難しいだろうな、そしてこの恋はたぶん成就しないだろうなー と思っていた。現代社会が、ブラジルの発展が、情報の氾濫が、N君の理想とする、美しくてまっとうでシンプルな理想を裏切るだろうー
もし彼がもう30年、いや20年早くこの世生まれていたら、あるいはー と思った。

結局この恋は成就しなかった。その後N君とは何度か会ったが、いろいろなことで私との仕事も中止となり、彼の本業の農業も、正直だけでは生きていけないブラジルではうまくいかなかった。N君はやがて農場を売り町を離れていったと聞いた。

by フェリックス 2007年9月

 

 

 

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